八柏道為
小野寺氏が山北の領主になった時に三人の功臣がおりました。
姉崎六郎、関口出羽、落合十郎ですが、落合十郎の家が今の横手市大雄八柏に領地を拝領したことにより、「八柏」と名乗り、八柏の当主が代々「大和守」を名乗るようになりました。
よっしーのおじいさん・稙道のときの山北郡は戦国乱世のまっただ中・・・・・強行的な支配体制を強いた結果、天文21(1552)年に金沢の金乗坊と横手佐渡守に攻められ、その時、道為のおじいさんに当たる八柏大和守が稙道の身代わりになって討ち死!結局、稙道は湯沢城で自害して果てますが、道為の父にあたる八柏太郎が、その時四郎丸と名乗っていた義道の父・輝道をつれて庄内に落ち延びました。
大宝寺氏と由利衆の後押しで、山北の領主に返り咲いた輝道は、八柏家の功績を称え、太郎の弟孫七郎・孫作に「小野寺姓」を名乗ることを許しました。
主家の小野寺家にとって八柏家とは、大変頼りになる重要な家臣だったと思われます。
八柏太郎の子である大和守道為・・・・彼の名前を高めることになったのは「有屋峠の戦い」でした。
鮭延典膳の活躍により「痛み分け」になった戦いではありますが、初戦では道為の策略により最上勢を痛めつけることに成功しておりました。
八柏大和守道為の存在は、最上勢にとって油断できないものとなったようです。
山北へ侵攻する際、道為の存在を恐れていたもがみん側は、調略の手を伸ばします。
最上勢山北方面隊の総大将・楯岡豊前守満茂は、道為が最上と組んだという偽の手紙を書いて、わざとよっしーの手に渡るようにしました。
それをあっさりと信じたよっしーは、八柏にいた道為を横手に呼び寄せて、横手城の大手門前の中の橋で暗殺してしまいました。
その後、すぐに最上勢が山北郡の南の要衝・湯沢城を攻めてきたのは言うまでもありません。
その時、湯沢城を守っていたのは、道為の叔父達である小野寺孫七郎・孫作でした。
湯沢城周辺の城主達が最上の勢力下に入る中、彼らだけは無勢ながら最上勢と戦い討死!
八柏家は、最後まで小野寺家に尽くして、滅んでしまいました。

・・・・・・と言うのが、奥羽永慶軍記での道為像です。
しかし、私が見た範囲内では、第一次資料には八柏さんの事について書かれたものを見たことがありません。
実際いた人物かとは思いますけど・・・・・
奥羽永慶軍記での八柏さんは、「おじいさん」として描かれております。
しかし、八柏さんがよっしーに殺された時点で、16歳と13歳の男の子がおりましたし、小野寺孫七郎・孫作の存在からも、明らかに「じいさまではないのでは?」と思い、私が勝手に40代のミドルエイジにしました^^;;;
本当にミドルエイジだったかどうかも分かりませんので、ちと地味な雰囲気にしました。
そして、私としては「暗殺された人」というイメージが強いので、何となく「死相」にしてしまいました^^;;;
ちなみにイラストの八柏さんは、「気がつけば、あの世にいたのです」と言っております(爆)