小野寺義道
小野寺よっしー・・・・出羽小野寺家の最後の当主です。
通名は「孫十郎」「遠江守」です。
小野寺家の当主の幼名は「孫四郎」と言っていたらしいですし、彼には光道(あきみちと読むかもしれない)という兄がいたらしく、彼の幼名が「孫四郎」だったようですので、よっしーは最初から「嫡男」では無かった可能性があります。
光道の母が、大宝寺氏の出という説があり、よっしーのお母さんは鮭延典膳の叔母にあたる人なので、もしかして側室から生まれたのかもしれません。
光道が若くして亡くなった為、オノデラーズの当主となった・・・・という事が考えられます。
ちなみに、光道は六郷氏から室を迎えていたようですが、光道が亡くなったため、彼女をよっしーの嫁に・・・・と依頼した所、よっしーはそれを拒絶したために、六郷氏との仲が険悪となり、そこにもがみんが仲裁に入ったという話です。
そこから、もがみんの「山北の情勢」を混乱させる魔の手(?)がのびていたのかもしれません・・・
サルの太閤検地の後、正式に小野寺家の当主として認められ、父・輝道の通名であった「遠江守」も継承しました。

「奥羽永慶軍記」では、もうけちょんけちょんに描かれている彼・・・・
思慮浅く、山北を初め由利地方の諸将からの人望を失うというありさまです。
それは、小野寺家を改易させた当主であるから、そう描かれているのだろうと思いますし、実際の彼は、どんな人だったかは分かりません。
ただ、お坊ちゃん気質はあったかと思われます^^;;
そういう点で、オノデラーズの勢力下に入っていた諸将は、彼を頼りがいのない当主と見ていたかもしれません。
そして、山北は権力が当主に集中していなかったせいか、諸将は独立心旺盛だったようです。
角館の夜叉九郎君や六郷の六郷政乗などが、早くからオノデラーズから離脱しようとしておりました。
(↑これは、もがみんの調略も加わっての事ですが・・・・)
そんな中、サルの権力が山北にも及ぶようになり、山北は混乱しました。
山北の検地の時、よっしーはサルの命令で上洛中でありました。
自分が不在の間に、自分のお膝元で一揆は起こるし、どさくさに紛れて南の敵のもがみんが雄勝地方を横領するし・・・(←オノデラーズの視点でものを申すとこうなります!)
もがみんと争ってもサルが打ち出した「惣無事令」のせいで、武力で雄勝地方を取り返す事が出来なくなりました。
悶々と時を過ごすよっしーでありました。
サルが亡くなり、天下が騒然とし、たぬが上杉征伐を打ち出した時、上杉とよしみを通じる一方、オノデラーズは「東軍」につく事を決めました。
・・・・・しかし、最上川以北の領主は、最上の指揮下に入る事・・・・
というたぬの命令が出ていたようでして、よっしーとしては、屈辱だったかもしれません。
そして、たぬが一転西進し、上杉軍がもがみん領へ侵攻したのに呼応して、もがみん側に横領された雄勝領奪還に乗り出しました!
しかし、うまくいかないし、しかも関ヶ原では東軍が勝ったために、逆にもがみん側から反撃を食らう羽目になりました!
慶長5年の冬・・・・このときは記録的な大雪だったために、領土の大半をもがみんに取られながらも、何とかもがみんの猛攻を交わしたよっしーでしたが、慶長6年正月・・・・たぬから改易の命が下され、弟のごろーちゃんと共に岩見の津和野へ流される事となりました。
その後、小野寺再興のために力を尽くしますが、夢叶わず、津和野で82歳の生涯を閉じました。
よっしーの子は、そのまま津和野で暮らした人もいれば、戸沢政盛の家臣として生きたものもおりました。

う〜ん!なんだか、よっしーの話ではなく、オノデラーズの話になっちゃった!ま、いいか〜(爆)

よっしーの着物の柄は下記サイトから使わせていただきましたm(_ _)m