小野寺康道
秋田県の戦国武将で一番好きなごろーちゃん!
それなのに、あまり自分のブログに載せていないです・・・・(汗)
何故、ごろ−ちゃんと呼んでいるかと言いますと・・・・
彼は、『山北屋形』&『横手隠居』と呼ばれ、小野寺氏の全盛期を作った一人・小野寺輝道の子の一人であり、小野寺最後の当主・義道の弟であります。
幼名は「孫五郎」、そして、由利&北浦の押さえとなっている「大森城」の城主となり、その後「大森五郎」と称するようになりました。
だから、「ごろーちゃん」(笑)
太閤検地の時に、義道が上洛命令を受けて、山北不在の中、義道の名代になったのが彼です。
ちなみに、その時、彼の城に景勝君が入城しております。
その時、ごろーちゃんは、20歳前後と思われます。
ごろーちゃんが一次資料に出てくるのは、太閤検地関係の書状と、津和野に流された義道の手紙くらいでして、実際はどんな人物か?は、分かりません(爆)
しかし、奥羽永慶軍記に出てくるごろーちゃんや、横手市大森町に残るごろーちゃんの伝説(?)から鑑みると、「強い」とか「親しみがある」とか、そんな彼の人物像が伺えます
・・・なかなか魅力的な武将だったように思われます。
(彼の愛妾・おかねが、彼のために命をかけたという伝説も残っておる位ですから・・・と私は思う@笑)
関ヶ原後、オノデラーズは西軍派と見なされ、もがみんの指示によって周辺諸国に一挙に攻め込まれます。
彼の居城・大森城も例外ではなかったです!し・・・もがみんが秋田城之介君に宛てた手紙にも
「大森城か西馬音内城を攻め落とさなければ、意味がない!」
と言うくらい、大森城はオノデラーズにとっては、最重要支城の一つでした!
ごろーちゃんがオノデラーズ史上もっとも活躍するのは、大森城攻防戦だったと思います。
由利衆や安東軍、そして六郷軍に囲まれた大森城は、ごろーちゃん達の活躍と記録的な大雪のために、持ちこたえた・・・・ようです!
それによって、小野寺家の意地を見せつけたのではないか?と私は思っております。
たぶん、ですが・・・・合戦中に、家康からの「矢留令」により、結局、停戦&開城となりましたが・・・・・
その後、小野寺家は改易となり、ごろーちゃんは兄・義道とともに津和野にお預けとなりました。
ああ、文才がないために、ごろーちゃんの魅力がまったく表現できていない気がする〜〜><
津和野に流されてから、旧臣と手紙のやりとりをした義道の手紙の中で、たまにごろーちゃんの事も書かれてあったりします^^;;
それを見るたびに
「もっと詳しく書いてくれや〜〜〜!!」
と大騒ぎしてしまいまする・・・・(爆)

県内の古文書収集家の中で、私が萌えそうな文書(しかも未公開)をお持ちの方がいらっしゃれば
是非とも・・・・写し&デジカメ画像で構わないので、世に出していただきたいと願ってやみません!

ごろーちゃんの着物柄は下記サイトから使わせていただきましたm(_ _)m