小野寺茂道
オノデラーズ兄弟の一番上の茂道は、父・輝道の側室から生まれたらしく、庶子とされています。
通名は、孫三郎、肥前守です。
そして、由利地方の押さえとして、西馬音内(にしもない;現在の秋田県雄勝郡羽後町@町役場がある地区@実際お城があるのは元西《元西馬音内》と言う所です)城の城主として配置されます。
ですので、彼の事を「西馬音内さん」と、呼んでおります^^
関係ないですが、西馬音内のちょっと北へ行った所に足田(たらた)という地名がありまして、そこには大和政権の蝦夷討伐の拠点の一つ雄勝城または雄勝柵があったと考えられる場所です。
雄勝城(柵)は多賀城と秋田城を結ぶ中継点だったようです。
という訳で(?)、西馬音内を含むその周辺は、古代から要衝の地であったと考えられます。
彼は、由利方面に対処し、また庄内地方の大宝寺氏や上杉氏との取り次ぎ役をやっていました。
庄内地方とオノデラーズの繋がりは、深かったようです。
京へ向かう時など、酒田港から出る船に乗って行っていたようですので、オノデラーズは庄内地方(大宝寺氏および上杉氏)との関係を大切にしていたと思われます。
そして、オノデラーズ勢力が由利地方へ及ばせるために、由利衆の矢島氏と婚姻関係を結んだのが、西馬音内小野寺家でした。
西馬音内さんの娘は、やっしーの嫁であります。
↑このことから、西馬音内さんとオノデラーズ当主であるよっしーは、かなりの年の差があったと思われます。
でないと、やっしーはかなりの幼妻を貰った事になる・・・・(汗)
話は脱線しましたが、よっしーが当主になってから、オノデラーズの由利地方政策が行き詰まっていた感じがありました。
唯一オノデラーズについていた婿のやっしーを、西馬音内さんは大切にしていたようです。
しかし、とんだ誤解からやっしーは自害してしまう羽目になってしまいましたTT
それがきっかけで、西馬音内さんはよっしーに不満を持ち、もがみんと通じた!・・・と「奥羽永慶軍記」には描かれていますが、実際の所、山北の一揆で山北が混乱していた時に、もがみんが
「関白殿下(=さる)のご命令により、仙北の南1/3は、最上が管理する事となった!」
という通達が来ていたようでして、オノデラーズでありながら、しぶしぶもがみんの勢力下に入っていた・・・ようです。
サル関白が死に、天下の行く末が騒然としていた時に、オノデラーズはたぬ側についてはいましたが、もがみんの指揮下に入る事を潔しとせず、上杉と手を結ぶ画策をしていたようです。
よっしーが、横手に帰る際に上杉領庄内地方を通った時に、直江君が便宜を図ってくれたらしく、その御礼をしておいてくれと、西馬音内さんに指示を出した手紙が残っております。
また、上杉方でもほんのりとオノデラーズと通じている事が伺える文書が残っております。
そして、直江君がもがみん領へ侵攻した時、オノデラーズはそれに呼応するかのように、もがみんに乗っ取られた雄勝地方の奪還を企てますが・・・・・
関ヶ原では、あえなく東軍が勝ち、頼みの上杉軍は米沢へ引き上げていき、今度はオノデラーズがもがみんの猛攻を受ける羽目となりました!
西馬音内さんの西馬音内城は、特にごろーちゃんの大森城と共にオノデラーズの重要な支城と見られていました。
もがみんの猛攻を支えきれず、西馬音内さんは城に火を放ち、行方をくらませました・・・・
(その後の消息については、後ほどオノデラーズシリーズにて・・・・)

西馬音内さんの着物柄は下記サイトから使わせていただきましたm(_ _)m