楯岡満茂
この方の名字の表記をどうしようか・・・・迷いました!
でも、「楯岡」の方がしっくりするので、楯岡満茂にしておきました。
彼は、もがみんの重臣にして、最上家宗家の一番近い血筋の方ではないか?と言われています。
でも、もがみんの弟ではないようです(楯岡甲斐守光直が、もがみんの弟です@笑)

ぶっちーは、最初は名字の通り楯岡城の城主でした。
山北の一揆後、秋田県のほぼ今の雄勝郡の部分がサルの蔵入地となり、それをもがみんが管理する事になりました。
その蔵入地を管理するために、湯沢城に入ったのが、この楯岡豊前守満茂です。
ちなみに、私は彼が「豊前守」と称していた事から「ぶっちー」と呼んでおります(爆)
↑そうやって、愛称をつけておかないと、愛着が沸かない感じがしたので・・・・(ぶっちーに限った事ではないですが・・・・@汗)
で、そこで彼は「湯沢豊前守」と呼ばれるようになったようですが、彼の名字は元々「最上」・・・・もっと正確に言えば「源」さんですからねえ・・・(笑)
よっしーとしては、何だか納得がいかない形で雄勝郡が自分の所領でなくなり、決して仲がいいとは限らない(というか、どちらかというと険悪)なもがみん側の将が、湯沢城の城主となった時は、ものすごくストレスが溜まった事だったでしょう・・・・。

『奥羽永慶軍記』で、オノデラーズの軍師・八柏さんがよっしーに殺害されたのは、ぶっちーの謀略だと言う事になっております。
実は、八柏さん殺害事件・・・・どこまで「真実」なのか分かりませんが、ぶっちーが「謀将」でもあったというエピだと思っております。
たぬちゃんの上杉討伐が中止となり、直江君からのお誘いでよっしーは「雄勝郡奪還」に乗り出す事になりますが、山形が上杉勢の攻撃にさらされている最中、ぶっちーも援軍を望めない状態で、湯沢城を死守する事となりました。
その様子を、オノデラーズシリーズで一応書きましたが、実は詳しい事はよく分かりません^^;;
私は、ぶっちーがなんとか湯沢城を死守する事に成功したのだと思っております。
もちろん、山形の方で上杉の猛攻をなんとか凌いだから「命拾い」した所もあったとは思いますが、多分ぶっちーだから死守出来たんだと思っております。
(ちなみに、オノデラーズは湯沢城を「落城」させる事は出来なかったと私は思っております。ソースはないけど・・・@爆)

命がけで雄勝郡を守りきったぶっちーではございますが、慶長8年に秋田・山北郡が佐竹領になると決定した時、ぶっちーは湯沢を離れる事となりました。
その代替え地として「由利郡」がもがみん領となりましたが、ぶっちーは「由利郡」の領主となりました。
最初は赤尾曾(小介川)氏の城郭・赤尾曾城に入城しましたが、その後、現在の由利本荘市尾崎に新しくお城を築城しました。
それが本城城(後に本荘城)でございます。
それにより、彼は「本城豊前守」と呼ばれてもおりますが・・・・・やはり、楯岡豊前守がしっくり来るような・・・・(笑)
彼の禄高は「4万5,000」石・・・・・もがみん家臣団の中で、トップだったそうです。
きっと、もがみん一族としても、家臣団としても、かなりの実力者だったのだろうと思います。
ちなみに、慶長5年の時点で、彼は40代前半だったはずです・・・・^^;;
本城城主になった時は、彼の人生の中で最高期だったのでは?と勝手に思っております。

しかし、もがみんが亡くなり、もがみんの次男の家親も原因不明の死因で亡くなると、家親の子・義俊を当主にするか、もがみんの四男・山野辺義忠を当主にするかと、最上家は真っ二つとなります。
ぶっちーも、山野辺義忠を押しておりました。
幕府としては、なんとか最上家を残そうと妥協案を出したりしたようですが、最上家臣団がどうしても義俊を当主として受け入れる事が出来なかったために、最上家は元和8年8月18日に改易となりました。
主家が改易となったため、ぶっちーも本城から去る事となり、酒井忠世に預けられる事となりました。
その後、ぶっちーは、3,000石で酒井家に召し抱えられたそうです。
3,000石のうち2,000石を自分の家臣に分け与えたとの事・・・・そのために、湯沢や本城に残って、一度うちの殿様(佐竹義宣)や本多正純に仕えていた部下達を呼び寄せたそうです。
ちなみに、オノデラーズとの戦いによく出て来た、ぶっちーの家臣にして岩崎城主の原田大膳は、最初から最後までぶっちーに付き従っていたようです。
そして、ぶっちーの子孫達は、酒井家(忠恭の時)が姫路に移封した際も、それに付き従って姫路に移り住んだそうです。
でも、ぶっちーのお墓は前橋にあるそうです。

旧本荘市には、「御殿鞠」という雅な民芸品がございますが、これはぶっちーの奥女中によってもたらされたとの事です。
それを初めて知った時、「ぶっちーのお宅って『雅』だったのね〜」と意外に思ってしまいました(失礼!)
私の中では、ぶっちーは典膳が露払いした道を通って、湯沢にやってきた「湯沢雄勝駐屯地司令」というイメージでございます^^;;
でも、ぶっちーも好きな武将の一人なんですよ@私(笑)
でも、湯沢にしろ本荘にしろ、いた期間が短いせいか、どうしても「秋田にいた武将」というイメージがないです(爆)