戸沢政盛
戸沢政盛君・・・・夜叉九郎こと戸沢盛安の一粒種です。
彼の出生のエピソードを初めて聞いた時は、仰天しました!
(これから、私めのうる覚え彼のエピについて書きますので、間違っていたら後でこっそりと直しておきます@爆)
夜叉九郎君が、鷹狩りだかなんだか忘れましたが、その時に休憩した農家の娘との間に生まれたのが、この政盛だと言う事です。
母親の身分が低すぎるから・・・と言う事で、今の世で言えば、夜叉九郎は政盛を認知しませんでした・・・いや、息子として迎える事が出来なかった・・・・のかな?
政盛のおっかさんは、その後政盛を連れて、修験者と結婚したのですが、政盛はその継父によくいじめられていたようです。
そんな彼を哀れと思った母親は、夫に内緒で彼に甘酒を作ってあげていたそうです。
もし、それが本当だったら、政盛にとって母の甘酒がなによりの慰めだった事と思います。
本当の父親・夜叉九郎君が小田原の陣中で病没し、夜叉九郎君の後を継いだ弟・光盛も、文禄の役で名護屋へ出陣する途中で、疱瘡にかかって急死してしまったため
急遽政盛が戸沢家の当主として迎えられる事となりました。
たしか、彼が7歳の時だったと思います。
サルに戸沢家当主と認められるために、京へ上洛しないといけない事となりましたが、政盛の実母はここでも身分が低いからと言う事で、彼の母親代わりとして戸沢家の重臣・楢岡氏の姫が同行する事となりました。
楢岡氏の姫は、前の戸沢当主・光道の正室だったとも言われております。
余談ですが、その姫は後にごろーちゃんの正室となりまして、「大森御前」と呼ばれるようになったと言う事です。
さて、幼い政盛が上洛した時、サルが自分と政盛の境遇が一緒だと言う事を知り(つまり、農家出身ということ)、一角の武士として政盛を育てたという話もあります。
彼が角館に戻ったのは、慶長4年・14歳の時と言いますので、当主なのに人質として上方で暮らした事になるのでしょうか??
その角館に帰る途中で、景勝君が会津で国造りをしているのを「たぬ様に謀反を企てている様子です」と、たぬちゃんに密告した事になっておりますが、実際は、慶長5年・・・オノデラーズがフルボッコになっている最中の山北郡の様子をたぬちゃんに知らせたのではないか?という説の方が私は正しいと思います。
たぬちゃんに上杉の謀反を知らせたという証拠のたぬちゃんの朱印状を見てみると、その朱印は、実際慶長5年以降に使われたものだし、同じ朱印同じ日付の同じ文書が秋田氏にも残っております。
つまり、彼はたぬちゃんに景勝君が謀反を起こそうとしていると密告はしていないと思います。
(でも、戸沢家文書の注釈(?)にはそう書かれていますけどね・・・)

さて、角館に帰った政盛(実はこの時「安盛」という名前でした)は、その直後に上杉征伐のために、最上領の米沢表に出陣するように、たぬちゃんからの命が下されました。
たぶん、戸沢勢はしっかりと出陣したのだと思います(笑)
そして、上杉征伐が中止となり、角館に帰る時だと思いますが、もがみんと「これからも協力していこうね!」という誓詞を交わしたと言う事です。
・・・・・もがみん的には、ものすごく不安だったのでしょうねえ・・・・
で、もがみん領から上杉征伐の為に出陣していた諸将がいなくなった後、上杉勢が9月13日にもがみん領に乱入してきます。
それに合わせて、オノデラーズも雄勝郡へ攻撃をします。
そして、慶長5年9月15日・・・・関ヶ原の本戦で西軍が負けた事により、上杉勢が10月1日に最上領から撤退した事により、最上勢は湯沢にいるぶっちー達を助けるために、湯沢に援軍を送る事が出来るようになりました。
それでも不安なもがみんは、秋田の諸将にオノデラーズを攻めるように依頼するのですが・・・・
オノデラーズを攻めるという名目で、戸沢領を通して欲しいという秋田勢をものすごく警戒していたようです!
政盛は、安東領と戸沢領の境の「淀川」と言う所に城を作り、結局秋田勢を自領に入れる事はしませんでした。
そして実は、戸沢氏は最初オノデラーズを攻める事に消極的でした。
と言うのも、戸沢家重臣白岩氏の所に、よっしーの妹が嫁いでいましたし、政盛の母親代わりであった楢岡氏はごろーちゃんの正室となっております。
戸沢氏とオノデラーズのつながりは、もしかして想像以上だったのかもしれません・・・・
が、そんなオノデラーズが、どんどんやばい状態になった時、戸沢氏はオノデラーズを見放すしかありませんでした。
結果的に、オノデラーズを見放した戸沢氏でありましたが、なんと言っても積極的にオノデラーズ攻めに加わった訳ではございませんでした。
ヘタをすると、オノデラーズと同様、改易するかもしれないという危機に立たされたのですが、父・夜叉九郎君の時から懇意にしていた鷹商人・田中清六を通じて、徳川家の重臣に手回しをして改易を免れたようです。
そして、佐竹氏が秋田に転封する事になった時、政盛は角館4万5000石から常陸松岡に4万石に転封となりました。
5000石減で済んだ・・・・と言えるかもしれません(汗)
ちなみに、オノデラーズが改易になった後、よっしーの子・保道を引き取って家臣にしたり、ニッシキダイ君(=西馬音内則道)が頼ってきた時も、受け入れてくれたのがこの政盛でした。
最上家が最上騒動で改易になった時、政盛は38歳・・・・・再び出羽に戻って参りました。
といっても、政盛は鳥井忠政の娘を正室に迎えていたので、山形に鳥居氏が移封するのに合わせて、戸沢氏もそのお隣の新庄へ転封となったのであります。
その時に、6万8千石の新庄藩が誕生しました。
そして、戸沢氏はそのまま幕末を迎える事となりました(戊辰戦争の時、庄内藩を裏切ったから、新庄城下はものすごい事になりましたけど・・・)

戸沢家は、外交上手とよく賞されますが、父・夜叉九郎が外交力で角館の所領をサルに安堵して貰う事に成功しましたが、政盛も外交力で家を守り通せたのだと言っていいかと思います^^;;
そして、幼い政盛を盛り立て、戸沢家を守り通した戸沢衆もすごいと思います!

これはあくまでも「私見」ですが・・・・
戸沢家墓所の瑞雲院の御霊屋を見ても、アットホームですし、私の中では新庄藩は「ほのぼの」している感じがします^^;;
それは、藩祖の政盛の出生が影響しているのかしら?と思ったりもしております。
夜叉九郎の子だから、夜叉九郎ジュニア、または夜叉ジュニと彼を呼んでおりますが、夜叉九郎の血を引いているにしては、穏やかそう・・・・それが私の政盛像です^^;;
ちなみに、私のイラストの政盛は、14〜16歳の設定でございます。