佐竹義久
佐竹四家・・・・佐竹一族だけど、臣下に下った者の中で「佐竹姓」を名乗ってもいい家柄をそう呼んでおります。
四家になったのは、江戸時代ではございまして、常陸時代は佐竹三家でした。
太田城の周辺に館を構えて、北側に館を構えた「北家」、南に館を構えた「南家」、東に館を構えた「東家」がありました。
佐竹義久は、東家出身でした!
通称は「源太郎」「中務大輔」です。
兄の義喬が若くして亡くなったので、21歳で東家の家督を継ぎました。
主に南陸奥方面の押さえを任されていたようですが、武勇だけではなく、知勇にも優れていたので、鬼佐竹の片腕の一人として活躍しました。
鬼佐竹が早くに引退して、義宣が家督を継ぐと、その補佐役となります。
主に上方とやりとりをしていたのは、義久だったようです。
あまり知られていませんが、上杉家の直江兼続同様、石田三成と懇意を通じておりました。
その証として、佐竹氏の居城久保田城跡「千秋公園」にある、茶室「宣庵」には舟形の手水鉢があります。
その手水鉢は、石田三成の計らいで、佐竹東家にもたらされたものであります。
上杉家ナンバー2の直江兼続もそうしていたように、佐竹家ナンバー2の東義久が取り次ぎ役であった石田三成とつながっていたのは、不思議なことではありません。
そして、さるお得意の引き抜きのターゲットにもされております。
佐竹家の中枢にいた義久を、もしサルが引き抜きに成功していたら、いくら親・秀吉の佐竹家であっても、領土経営に支障をきたしていたと思います。
もちろん、義久は佐竹家の忠義を取り、サルのスカウトをお断りしております(笑)

とまあ・・・・石田三成と「役目」とはいえ、深く繋がりを持っていた義久ではありますが、サルの死後、関ヶ原へと情勢が動き出した時、あっさりと「徳川につくように」義宣に進言します。
しかし、三成に深い恩義を感じていた義宣の意も汲み取って、佐竹家は「中立」を選択します。
多分、たぬの上杉討伐の時、形成が思いっきり「上杉の勝利確実!」だったら、いつでも佐竹家は西軍派についていたでしょう!・・・・し、義宣と三成の仲の良さを考えたら、それが普通!と世間は見ていました。
しかし・・・・上杉との決戦を前にして、三成挙兵の報告を受けたたぬは、西に反転しました。
情勢は東軍西軍どちらの勝利か分からないまま、佐竹家の中立の態度は続きます。
徳川秀忠の軍が中山道を通って関ヶ原へ進軍する時、佐竹家はこの東義久を従軍させました。
ですので、東義久は「第2次上田合戦」をその目で見ております。
そして、関ヶ原本戦でたぬが勝利を収め、西軍派についた諸大名の処遇が次々確定していく中、佐竹家の中立の態度が問題となりました。
しかし、義久は「自分が秀忠の軍に従軍したのだから、れっきとした東軍だ!」と主張したため、とりあえず佐竹家の所領は安堵されることが「口約束」で決まりました!
・・・しかし、初戦口約束・・・・東義久は1601年に急死してしまったため、翌年佐竹家は出羽・仙北の転封が言い渡されました。

義久がたとえ急死していなくても、何らかの手段で佐竹家は常陸から追い出されていたとは思いますが、急死していなかったら佐竹家の運命はどうなっていたでしょうね・・・・

秋田に転封になった佐竹義宣は、最終的に南家を湯沢へ、北家を角館へ配置しました。
しかし、東家は分家筆頭として、久保田城城下に留め置かれました。

佐竹親子ですら「地味」扱いですので、況んや東くん(と私は呼んでおります)をや!ですTT
本当は、直江兼続や片倉小十郎くらいの名執政だったと私は思うんですがねえ・・・

ちなみに東くんは、鬼佐竹とうちの殿様の中間の世代にあたります。
うちの殿様にとっては、頼りになる「お兄ちゃん」って感じだったかもしれません。

ところで・・・・
私、東くんを「デッサン」の段階でしか登場させていませんが、「登場人物」に加えていいものでしょうかねえ・・・・(滝汗)
これから、登場させる予定もありません(爆)ま、いいか・・・

東くんの着物柄は下記サイトから使わせていただきましたm(_ _)m