渋江政光
渋江政光・・・・うちの殿様(佐竹義宣)がもっとも信頼した側近&家老でした。
通称は「内膳」です。
ですので、私めも「内膳」とお呼びしております。
竿燈をはじめとする、秋田市のお祭り&民俗芸能の紹介をしているねぶり流し館に、土崎港まつり(現土崎港曳き山まつり)の山車も展示されております。
ここにその写真が載っていますが、この展示用の山車のテーマは「大阪冬の陣・今福の戦い」でございます。
これを初めて見たのは・・・・・多分5年くらい前かな?
「渋江内膳って誰よ!?」とその時内膳のことは全く知りませんでしたが、今思えば「渋江内膳って誰よ!」は、大暴言でございました!!
内膳は、小山家に使えていた荒川氏の出身ですが、小山氏はサルにより改易となり、それにより内膳は浪人をせざるをえませんでした。
そんなとき、佐竹家の家臣・人見藤道が内膳の能力を買い、うちの殿様に推挙してくれたため、内膳は殿様の側近衆となりました。
そして、佐竹家の重臣の家であった渋江家に婿養子となり、そこから「渋江」を名乗るようになりました!
・・・・・なんだかここまで直江君と一緒・・・・(笑)
その頃のうちの殿様は、佐竹家の当主とはいえ、鬼佐竹と執政でもあった佐竹四家筆頭・東義久の影響力が強く、殿様主導で領地経営などを行っていたとはいえ、どこかしら不自由を感じていたのでは・・・・と私は思います(妄想)。
殿様にとって、己の考えている経営方針と、内膳の考えている経営方針が一致していたのではないでしょうか?
関ヶ原後、東義久は急死し、佐竹氏が秋田に突然転封となったのをきっかけに、内膳は殿様の後押しで表舞台に出てくるようになります。
転封後に今の千秋公園に久保田城を築城した時に、縄張りしたのは内膳でした(その縄張りを、梶原美濃守政景が添削(?)しましたが・・・・)
その縄張りは、敵が城に乱入する前に、鉄砲隊で殲滅出来るような、近代戦術に沿ったものでした。
城の縄張りついでに(?)、旭川の流れを変えて、それを久保田城の堀に見立て、内町(武家屋敷)と外町(町人屋敷)を整備したのも彼です
そして、渋江田法という独自の検地方法を実施して、農業生産と藩財政の安定につなげました。
つまり、内膳は「今の秋田市の中心街の生みの親」でもあり、「佐竹藩の財政基盤を作った功労者」でもあります!
そんな方に対して「渋江内膳って誰よ!?」とほざいた事のある私・・・・ごめん!内膳!!(爆)
藩政に功績を残し、更に殿様の信頼が厚かったので、彼は34歳にして「家老」に抜擢されました。
それを快く思っていなかった川井伊勢守を始めとする宿老たちは、内膳を暗殺しようとします。
それを察した殿様は、自分の政策を実現実行してくれる内膳を守るため、川井伊勢守を鷹狩りに誘って、主馬(梅津政景)に殺させました。
それほど、殿様にはなくてはならない家臣だったのでしょう・・・
藩における国づくりの途中で、大阪の陣の触れがたぬから言い渡されました。
佐竹家が大阪の冬の陣で配置になったのが、激戦地の一つ「今福村」でした。
そこで、木村重成&後藤又兵衛隊と激戦を繰り広げます!
この戦いで、関ヶ原の戦いの影響で転封された佐竹家の名誉回復のために、内膳自ら先頭に立って戦いました。
殿様の一番の家老です!佐竹家を背負って、死にものぐるいで戦ったのだと思います。
しかし、相手も必死の猛攻を仕掛けてきていました。
戦闘中、内膳の馬に鉄砲の弾が被弾してしまい、内膳は落馬!そして、そのまま敵兵に討ち取られてしまいました!
享年41歳・・・・佐竹義宣にとっても、秋田にとってもとてもとても惜しい人を失いました!TT
内膳が仕込んだ藩運営の基礎は、梅津兄弟を始めとする同僚達によって進められることとなりました。

内膳のお墓は京都にありますが、秋田市にある全良寺は内膳の菩提寺として建てられました・・・・・が、そんなことを知っている市民は果たして何人いる事やら・・・・・
全良寺は、今や戊辰戦争で戦没した官修墓地として知られている程度です。
「渋江内膳って誰よ!?」とほざいた私が言うのも何ですが、秋田市民であれば、もっと内膳のことを顕彰するべきだと思うんですがねえ・・・・