佐竹義宣
思えば・・・・・
私の戦国熱が再燃したのは、我が藩初代藩主の佐竹義宣公のお陰でございました。
あれは・・・・3年くらい前の話でしょうか・・・・
前からうちの藩の殿様の事くらいは知りたいと思い、佐竹義宣本をちょろっと探したら、PHP文庫の近衛龍春さん著の「佐竹義宣」を見つけまして、早速読みました!
正直・・・説明が丁寧すぎて、読みにくい所もありましたが、面白かったです。
そして、次に殿様(=義宣)のお父さん、鬼佐竹こと佐竹義重公のPHP文庫もあったので(同じく近衛龍春さん著)、それも読みました!
それから、PHP文庫の武将小説を読みあさると言うスパイラル状態となりました!
今、このサイトまで作るまでに至ったきっかけを作って下さったと言っても過言ではないでしょう!
さすが、我が殿様!(笑)
常陸時代の殿様は、鬼佐竹の後見を受け、すくすくと当主として成長していきます。
上方と接触した際、じぶじぶから多大な恩恵を受けた為、秀吉から54万石の大名と認められました。
それを恩義に感じた殿様は、当然「親三成派」となります。
犬が死去した後、豊臣の武断派に襲撃されそうになったじぶじぶを助けて、大坂から伏見に無事送り届けたのも殿様です。
そして、関ヶ原・・・・・
律儀な殿様は、当然西軍派につきたかったと思われますが、たぬと親交があった鬼佐竹の意見もあって、佐竹四家筆頭の東家当主・佐竹義久を西進する秀忠の軍へ赴かせるなどして、結果的に「中立」の立場を取りました。
そして、関ヶ原後・・・・
殿様は親三成派でも知られていましたし、たぬの会津征伐の時に、隙あらば上杉へ荷担していたのでは・・・?とも思われていましたし、何よりもたぬのお膝元と接していた佐竹氏は、たぬにとっては「危ないお隣さん」だったと思います。
関ヶ原が終わっても、すぐ佐竹氏の処分を表明していなかったたぬですが、秀忠軍に従軍していた東(佐竹)義久が突然死去したのをきっかけに、関ヶ原が終わった2年後、佐竹氏に突然「秋田・仙北郡」への転封を命じました。
「もしかして、このままおとがめがないかもしれな〜い!」と思っていた、殿様には寝耳に水・・・しかも、転封先の禄高が「お墨付き」に書かれていないという事もあり、不安を抱きながら、しぶしぶ我が秋田へ移ってこられました^^;;;
宿老を粛正するという、血なまぐさい事件もありましたが、自分が登用した若い家臣達と共に、国づくりに励みました。
そのお陰で、転封後20万石あった領地(←転封後にきっちり検地をして判明)が、後に実質30万石にまでになりました(家格は20万石のまんまですが・・・)
・・・・・他にもいろいろありますが、自県の「手前味噌」になるので、この辺にしておきます^^;;

戦国から江戸時代の寛永年間まで生きた殿様・・・波瀾万丈な人生は、63年で幕を閉じました。
殿様は、秋田市泉にある天徳寺の佐竹家御霊屋で眠っておられます。

ちなみに、殿様がだっこしているのは、殿様の飛脚狐「与次郎稲荷」です^^;;

こうやって文章にしてみて気がついたのですが・・・・自分が思っている以上に、私・・・殿様を尊敬しているのね〜
気がつかなかったわ!(爆)

殿様の衣装の柄は下記サイトから使わせていただきましたm(_ _)m