戸沢盛安
戦国時代題材のシミュレーションゲームをやった事のある方は、この武将をご存じかもしれませんが、やはりマイナー域から出られていないような気もします(汗)
私も、最近までは彼の存在を全く知らず・・・・・(滝汗)
秋田にこんな素敵な武将がいたのね〜と、とても喜んでおります。
戸沢氏は、その昔、岩手県雫石にいたそうですが、南部氏の勢力から追われるように、仙岩峠を越えて秋田にやってきました!
秋田県に入ってきて、最初に居着いたのが、今は玉川ダムで沈んでしまった宝仙台(宝仙湖の下)だったそうです。
そして、じょじょに西に進出して、今の仙北市西木町門屋に門屋城を築いて、そこで十分勢力を養いました。
そして、戦国期には今の角館に移り、古城山に角館城を築いて、大名家となる足場を作りました。
そんな中、九郎盛安は、兄が病弱だったということで、戸沢家の家督を継いだのが17歳のことでした。
盛安が家督を継いだ時の戸沢家は、オノデラーズの勢力下に入っておりました。
とはいっても・・・彼も独立心旺盛な山北の武将の一人でありました。
彼は、田中清六という、仙北の鷹を上方に運ぶことを生業にしていたものを通じて、上方の情報を仕入れていたそうです。
きっと、田中清六を通じて・・・と思いますが、もがみんがオノデラーズを後ろから牽制して貰うために、戸沢氏と密かに接触しておりました。
オノデラーズともがみん勢が、国境の有屋峠で戦っていた時、オノデラーズのお膝元の平鹿地方ががら空きになっておりました。
もがみんに呼応して、盛安は沼館城を狙って出陣しました!
横手城の留守を守っていた大築地織部は、自分の居城が戸沢勢に攻められることを知り、麾下の小清水蔵人に手勢を預け先陣を切ってもらい、自分は蔵人の後詰めとして出陣することとなりました。
小清水の軍と戸沢勢は、今の横手市大雄にあった阿気野で激突しました!
小清水蔵人は剛の者だったらしく、彼一人の戦いで戸沢勢が押されつつあったそうです。
自分の手勢を鼓舞するかのように、盛安は先頭を切って小清水の軍へ当たりました!
そして、小清水と一騎打ちをし、なんと!小清水蔵人の兜を一刀両断しました!
盛安の活躍により、戸沢勢は勢いづいて、小清水蔵人は討死!大築地勢は総崩れして、沼館城へ逃げ込みました!
その後を追った戸沢勢は、沼館城を取り囲みました・・・・・が・・・
有屋峠の戦いは、オノデラーズ&もがみん勢の「痛み分け」で決着がつき、オノデラーズが沼館城へ軍を差し向ける事が出来る状態となりました!
そうなると、今度は戸沢勢が不利になります!
よっしーの「このまま軍を引き上げたら、罪は問わない!」という言葉を受けて、盛安は角館へ引き上げました。
この阿気野の合戦で、盛安の名が高まり、「鬼九郎」または「夜叉九郎」と呼ばれるようになりました!
そういう訳で、私は彼を「夜叉九郎君」と呼んでおります。
夜叉九郎君がオノデラーズに反旗を翻した事を聞いた、秋田の北天の斗星こと安東愛季
「自分と組んで、オノデラーズを攻めよう!」
と話を持ちかけました!
その頃、南部領であった鹿角郡や庄内地方に勢力を伸ばしかねていた北天の斗星は、勢力を山北に伸ばそうとしておりました。
安東氏の下につくことも潔しとしなかった夜叉九郎君は、オノデラーズと共に安東軍と戦うことを決意しました!
山北攻略の拠点として、北天の斗星は今の大仙市協和にある唐松山に城を築きました。
そこで、戸沢勢を中心とするオノデラーズと、安東勢が激突しました!
これを唐松野の合戦と呼ばれております。
ここでも、夜叉九郎君は、敵方の剛の者を素手で倒したり、または傷ついた捕虜を殺しても益にはならないと言うことで、そのまま生かして帰したりして、名声を高めました!
夜叉九郎君と唐松野で刃を交えていた北天の斗星は、その地で発病し、密かに今の男鹿市脇本にある脇本城へ運ばれ、そこで息を引き取りました!
北天の斗星がなくなり、その子の実季が12歳で家督を相続したことにより、安東家でお家騒動が起きました!
これが「湊騒動」と呼ばれておりますが、「北天の斗星のせいで、今の秋田市土崎にある湊城と湊家(安東宗家)の相続権を奪われた!」と思っていた安東(湊)道季が、土崎湊の利権を認める代わりに、自分と一緒に今の能代市檜山にいた安東実季と戦ってくれるように、話を持ちかけました!
土崎湊の利権を狙っていた夜叉九郎君は、道季の申し出を受け、安東実季勢と戦いました!
戸沢勢がいくら道季の援護射撃しても、実季側の戦略により、結局は実季側が勝利して、夜叉九郎君の土崎湊への進出が失敗しました!
その頃・・・・・
上方では、サルが着実に天下人の階段を上がりつつありました!
多分、田中清六から得た情報によるのだと思いますが、小田原征伐の号令を受け、夜叉九郎君は9旗13人の部下を引き連れ、密かに小田原征伐しようとしているサルの元へ駆けつけました!
これが奥羽諸侯では「一番乗り」を果たし、これにより戸沢家の所領四万四千石が安堵され、オノデラーズの麾下から脱し、大名家として独立することとなりました。
しかし、そこでの駐屯がこたえたのか、それとも無理をして秀吉の元へ駆けつけたせいか・・・・弟である光盛を養子として自分の跡継ぎにして欲しいとサルにお願いして、25歳の若さで他界してしまいました!

短い人生でありながら、中身の濃い人生を送ったのではないでしょうか?
彼の武将としての能力を考えると、若くして亡くなったのが残念でなりません!

上にも書きましたが、彼はかなりの力持ちとして伝わっております。
それにもかかわらず、線の細い夜叉九郎君として描いて・・画力がないために・夜叉九郎君に申し訳なく思っております!!
しかも・・・・着物の柄が・・・・・(滝汗)
ああ!ごめん!夜叉九郎君!!!(爆破)

彼がいた角館では、丈夫で働き者の男性を「鬼九郎(オニグロ)」と呼んでいる・・・または呼んでいたようです。
↑実際、角館の人にまだ確認していないので、なんともいえませんが・・・・たぶんご年配の方は「オニグロ」という言葉をご存じなのではないでしょうか?

彼の通名の一つに「治部大輔」があります。
・・・・私にとって、治部大輔は、足利尊氏なんですよね〜(笑)
ですので、やはり「夜叉九郎」と呼びたいです^^

長くなったので、夜叉九郎君の後のことはここでは省略いたします(爆)