2.関連地図
注;おおざっぱに描いた地図ですので、ご了承下さい!
一、戦国期の秋田県
現在の秋田県の地図から、だいたい「山北三郡」つまり、山北郡を説明したかった地図でございます。
山北(せんぼく)郡とは、山本郡(後の仙北郡)と平鹿郡と雄勝郡の三郡を合わせた総称と言われております。
また、後に戸沢氏が治めた部分を北浦郡、小野寺氏が治めた部分(後に最上管轄領を含む)を上浦郡、本堂氏と六郷氏が治めた部分を中郡と呼ばれる場合もございます。
小野寺氏の全盛期は、山北三郡と有屋峠を越えた現在山形県の金山と真室川まで、勢力を拡大させておりました。
(山形県の地図が手元になかったので、省略@爆)
ちなみに、由利郡について、矢島氏の治めた部分も由利郡でございますが、わかりやすく矢島氏の所領だけ区分けしてみました!

二、最上氏進出後の小野寺領
すみません・・・・・いろんな参考文献を読んで、私めなりに考察した地図でございます。
しかも、地図も適当に書いたので、正確性を問われたら・・・・・(滝汗)
山北の一揆が起こった時に、一揆鎮圧を名目に最上氏が乱入してきたのですが、その後どういう訳か雄勝郡に当たる部分の蔵入地の管理を最上氏が受け持つことになりました。
(その理由については、別に述べたいと思います。)
参考文献等を読んで、私なりに思ったのは、最上氏が主張している「管理すべき範囲」は、皆瀬川&成瀬川よりもちょいと北のあたりから「南の部分」のようです。
太閤検地により、北浦の戸沢氏や中郡の本堂&六郷氏が、独立した領主として御朱印状を貰っていますので、実質小野寺氏の治める部分は、ほぼ「平鹿郡」のみとなってしまいました。
最上氏に横領された(←小野寺氏の言い分として表すと、こうなる)雄勝郡は、もともと小野寺氏が入部して以来の「本拠地」
それを以前から有屋峠を挟んで対峙していた最上氏が入り込んできたとあって、さぞ無念だったことと思います。

三、大島原合戦時の小野寺軍進行地図
自分が納得するために作成した地図でございます!
こう見ると、もがみん側に羽州街道が抑えられていた・・・・と言う事が分かりますし、もがみん側も孤立無援であった事が分かりました!
お陰様で、自分が住んでいる県中央部より、湯沢雄勝の地図に詳しくなりました(爆)
四、東部三城落城関係地図



Snipping Toolの使い方が分かったので、調子に乗って、Googleマップを借用して作ってみました。
こちら稲庭・川連・三梨の雄勝郡東部三城が、最上勢によって攻められた事を示す地図です。
「奥羽永慶軍記」では、文禄年間に起こった出来事として書いておりますが、私は勝手に関ヶ原後の出来事として、オノデラーズシリーズに書きました。
・・・・・・もし、関ヶ原前の出来事だったらすんません(爆)
五、柳田城落城関係地図



こちら、柳田城落城に関する地図です。
というか、ほぼ適当です!
特に、茶色の戦で、オノデラーズともがみんの勢力範囲を分けてみたのですが、それもほぼ「こんな感じかなあ〜?」と私が勝手に引いたものでございますm(_ _)m
ただ、太い茶色の線は、雄物川に沿って引いてみたのですが、雄物川を境に、西馬音内勢&山田勢ともがみん勢がしのぎを削っていたことは間違いないと思います。
六、安東(秋田)実季の仙北進軍等地図(推定)



あまりオノデラーズの中で触れていませんでしたが、サネッティの進軍経路を考えてみました。
最初、淀川で戸沢に進路を妨害された後、一度秋田に戻ってから、赤宇曾(あこうず@岩城亀田松ヶ崎)に向かって南下したのかな?と
適当に進路線を引いてみました。
そうしましたら、ありがたくもこの件にご指摘して下さった方がいらっしゃいまして、上記に訂正致しました。
白の線が以前適当に引いた進路、ピンクが訂正の進路の線です。
戸沢氏が淀川より南に城を築いていたら・・・・という前提で、今のR341に相当する道を通れば、岩城亀田へ直行できます!
↑サネッティの父・北天の斗星(下國愛季)が唐松城を建てていた事を考え、淀川から北の方・・・唐松山は、サネッティの勢力範囲と見なします。
いずれにしても、雪の中の行軍・・・・・サネッティもブツブツ言いながら大森城を目指していたにちがいない・・・と私は思っております^^;;;